永昌町と周辺の歴史散歩

長崎県諫早市永昌町と周辺の歴史散歩

趣旨

永昌町は945世帯、人口1954人(平成26年)の町ですが、江戸時代には長崎と小倉を結ぶ長崎街道23宿の一つの永昌宿があった町です。
しかし、明治31年の諫早駅の開業と昭和40年代の区画整理事業で永昌宿跡は完全に失われました。昔の町並みを知っている人も少なくなり、このままでは長崎街道の宿場町だったことも忘れ去られてしまうと思い、古い写真や資料を探してみました。住民の方や美術歴史館等の御協力で集まった写真や資料を掲載しました。 永昌町と周辺地域の歴史等を知ることにより日頃、何気なく見ている町も少し違って見えるかもしれません。
家族の写真はありますが、街並みや暮らしを切り取った古い写真は少なく、これからも探したいと思います。
不十分なところがたくさんありますが、皆さんと共に充実していけたらと思っています。

地形と地質について

諫早市は長崎県本土部のほぼ中央部に位置し、長崎、島原、西彼杵半島の結束部にあり、東は有明海、西は大村湾、南は橘湾の三方を海に面した地峡部にあります。
永昌町は風観岳すそ野に広がる丘陵部の南端にあり、有明海と大村湾との最も狭い地狭部付近に位置します。
地質的には古第三紀層からなり、これを覆い、洪積層(凝灰質砂岩、シルト岩等)沖積層、洪積層(凝灰角礫岩を主とするもの)が分布しています。
永昌町の御館山頂上部には古第三紀層(約5000万年)の砂岩が露出しています(参考資料①②)

永昌町周辺の遺跡と歴史

永昌町から風観岳周辺に向けて28の遺跡があり、永昌町には永昌団地周辺に縄文時代の永昌遺跡があります(昭和56年に市教育委員会が調査、黒曜石の破片が出土)
古代社会では大宰府から伸びる古代道路(官道)が永昌町付近を通り、有明海から諫早湾奥へ進むと大村湾まで3~4百mの地峡部があり、丸太船を担いで地峡部を超えたために小御船越の地名が付いたとも言われています。古代でも交通の要だったようです。
飛鳥時代702年に永昌町に隣接する小船越町か船越に古代道路の駅が設けられています。永昌町から北に約2kmの本明町には708年に創建された平松神社。 永昌東町には728年の創立と伝えられている諫早神社があり、古代道路沿いの本明~永昌地域は諫早で最も古くに開かれた地域だと言われています。

永昌町と周辺の歴史年表の抜粋(市歴史年表等参照)

664年

風観岳に烽火を設置

702年

小船越か船越に駅を設ける

708年

本明町の平松神社の創建

709年

下大渡野町の年神社建立。

724年

永昌東町の諫早神社建立。

794~1190

平安時代

1123~35年頃

伊佐早地方は律令制下の口分田から荘園化したらしい。

1154年

鎮西八郎為朝、御館山に立ち寄る?

1278~88年

伊佐早庄は仁和寺領(京都)になっている。

1192~1333年

鎌倉時代

伊佐早氏が登場(荘園の庄司が伊佐早氏に?)

1334~1392年

南北朝時代

伊佐早氏は主に北朝側で戦う。
南北朝時代の終わりには伊佐早氏は没落し越後の上杉氏を頼り去る。伊佐早地方は西郷氏の勢力下に。

1467~1572年

戦国時代

1470年

西郷尚善、伊佐早高城を築城

1573~1603年

安土桃山時代

1587年

豊臣秀吉の不興をかい、伊佐早の地は西郷から竜造寺家晴に

1603年~

江戸時代

1613年

竜造寺氏改め諌早氏へ

1621年

三部上知により栄田村内栄昌村はお蔵入り地に、栄昌村に代官所

1705年

長崎街道が完成

1722年

街道の絵地図に新宿(栄昌宿)の名称

1734年

諫早日記に栄昌宿が出てくる。
1734~60年の間に 栄田村から栄昌村が分離し、その後、永昌村に。

1783年

古河古松軒≪西遊雑記)が永昌宿に寄宿

1802年

菱屋平七(筑紫紀行)が永昌宿に寄宿

1843年

「諌早郷監」に永昌村人口342人、栄田村338人。

1850年

吉田松陰が永昌宿に寄宿

1613年

竜造寺氏改め諌早氏へ

1613年

竜造寺氏改め諌早氏へ

1868~1912年

明治時代

1877年

明治の大合併で永昌村は栄田村に合併。旧永昌村は大字永昌名に

1890年

栄田村は北諫早町に合併。

1899年

(明治31年)諫早駅開業

1923年

(大正12年)諫早町、諫早村、北諫早町が合併し諫早町へ、

1940年

(昭和15年)諌早市が誕生

1957年

諌早大水害

1959年

永昌町を永昌町と東永昌町に分離

2005年

1市5町が合併し、現在の諌早市が誕生

(参考文献・高木の風、諫早史談、深堀の歴史、市の歴史年表・・市図書館所蔵)

永昌宿に多くの文人の足跡

1705年に長崎街道が完成し、17年後の1722年(享保7年)の長崎街道絵地図に新宿(栄昌宿)の記載があります。栄昌宿が整備される前の旅人は諫早市内の宿等を利用しましたが、宿場町として発展する中で、多くの商人や文人などが利用する宿場になったようです。
しかし、長崎奉行などは諫早市内の安勝寺等を利用しています。
永昌宿には天明3年(1783年)古河古松軒(西遊雑記)享和2年(1802)菱屋平七(筑紫紀行)、嘉永三年(1850年)には吉田松陰が宿泊しています。文化九年には伊能忠敬(測量日記)が測量で訪れています(長崎県の地名、県地名辞典)

諌早市の近代化は永昌町から

明治4年12月に永昌の辻の宿駅所跡に郵便事務取扱所(諌早で最初の郵便局)を開設。明治五年、政府は宿駅制度を廃止して近代的運輸制度への転換をはかりました。明治15年に日見峠に新道路が整備されるなど明治道路の整備が進み、明治31年、永昌町に諫早駅が開業し永昌宿の役割が終わりました。大正9年には片倉製糸紡績、県農業試験場などが設けられ、永昌町から諫早地域の近代化が始まったとも言えます。
昭和40年代の都市計画事業で約300年の歴史がある永昌宿の跡は全て無くなっていますが、永昌代官所東下にあった西国三十三所観音は永昌町の八天神社に移されています。この観音像に永昌宿の有力者、嶋田瀬兵衛、豊前の僧台岳、宿主の名が記されています。

明治時代の永昌町の暮らし

明治9年の栄田村への合併後も旧永昌村は大字永昌名として新村の下部機構に組み入れられ「常設委員条例」による常設委員が置かれ、旧来の慣行の処理や溜池や用水路などの管理を行っています。明治22年に北諫早村に合併された時の永昌名に関する資料等が永昌町公民館の茶箱に保存されています。資料には100世帯の世帯主の名簿の他、田畑の測量図や常設委員の資料綴り、日清戦争への寄付、墓地の埋葬に伴う診断書、小学校への寄付等が記されており、明治の暮らしを垣間見ることができます。

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